自身の意見を感情でぶつけてくる人はよくいるが、これに人の話を聞く気が全く無い、という身勝手ワガママな子供要素が加わり、私の言う事は絶対に正しい、だから言うことを聞け、というような人がいて、運悪くその矛先が自分に向かってくると、もう絶望的な気持ちになる。
例えば周囲に他の人がいるならば、言葉を選びながら、その人の気づいていない要素を少しずつ説明し、周囲の人になるほどね、等と相槌を打ってもらって軌道修正をして、考え直したりしてもらうのだが、なかなかそんなに上手い状況には運ばない。
世の中は平和を欲しているはずだが、如何ともし難い状況というものは必ず存在し、そのような状況に陥らないような何らかの抑止力が必要なのだ。人と人の間のことであれば、それは理性と呼ばれる人智であるべきだし、理性が吹き飛ぶような人には、二度と近づかない配慮が必要だ。
相手が感情を爆発させているのに、自身は感情的にならぬよう我慢する、という状況は、対等な立場ならば殆ど有り得ないことなのだけれども。
何があったかは心の中に記しておこう。とにかく、この3日間、ひどく憔悴した。
活動的なバカほど恐ろしいものは無い、と言ったのはゲーテであったが、その時代の活動的なバカは誰の目から見ても、そのバカがどこの誰であるのか明らかであった。しかし、今の時代の苦難はこの「活動的なバカ」が、誰ともわからない匿名でデマを振りまくことにある。
「ネット黎明期」と言われる、個人がインターネット上にホームページを開設していた時代から、2ちゃんねる全盛期に移った頃、にわかに匿名性を利用した罵詈雑言やデマの流布、悪意のある投稿等が問題になったが、その後の個人ブログ全盛期があり、そして今のSNS隆盛期になって、ますますその度合いは大きくなってきたと思っている。何しろ2ちゃんは見に行かなければ良いし、ブログもそう。しかし、Facebook(これはおおよそは匿名では無いがデマの流布という観点では同じ)やTwitterで飛び込んでくるそれらには、もう正直うんざりである。インターネットコミュニティは「当該者同士のみ」「小さなグループ」と言う小さなコミュ二ティの時代(つまりLINE)へとシフトしつつあるが、まだまだ悪意のあるそれらは健在である。情報の取得にはLINEだけでは充足しないのは明確であるし、人の集まるポータルサイトは未だ隆盛を保っているし、そして、そこのポータルサイトにあるニュースのコメント欄には、顔や名前が知れていたなら絶対に言えないような悪意のある文言がずらりと並ぶ。
川崎で起きた中学生の殺人事件で、事件とは全く関係の無い一般人が、犯人の一味としてその名前と顔写真が拡散された。
TwitterやFacebookでは、被害者のあまりにも残忍かつむごい殺され方と、現在の少年法への憤りもあり、そしてあまり考えたく無いが、その炎上っぷりを面白がる人によって、瞬くもその間違った個人情報は拡散され、結果、実行犯として起訴された3人以外は事件とは直接関係が無かったのであるが、拡散した当人は、まるで何も無かったかのように通常の毎日を過ごしている。
風説の流布については刑法233条にあるように刑事事件で裁かれる案件であるが、実質、「誰の拡散(流布)」によって「どういった信用棄損」があったかを確定しなければならないため、今回の件の場合、立件は困難だろう。また、名誉棄損に当たるため、その個人情報の火消しにサイト運営側がいくら廻っても、拡散のスピードに追いつくことは実質できない。
つまり、結局は、法やシステム以前に、こういったデマや匿名性を利用した名誉棄損というのは、個人個人のモラルに頼るしか無いね、という話になってしまうのが非常に歯がゆいが、人の抱える闇というのは言うまでもなく深刻だ。
人の不幸を望むあなた。
情報が明らかになっていないのに絶対的な悪と断罪するあなた。
表ではいい顔をしておきながら、「なんでこの人いるの?」とLINEのグループ機能を使って、目の前の嫌いな人をみんなでバカにするあなた。
自分の過去を全て人のせいにして、自分が聖人のようにふるまうあなた。
自分の不都合はしょうがないで折り合いをつけるあなた。
本人のいないところで他人を断罪するあなた。
そういった、人の心の闇に出会う度に、どうか他人を傷つけるような形の「活動的」では無くて、自分の闇は自分で処理してくれよ、もしくはあなたの最も信頼する人や、あなたの信じるものとの間で終わらせてくれよ、ということを思わずにいられない。
あなたの勝手な思いで、人を傷つける権利等、一滴もありはしないのです。
僕は葛藤すべき人間だ。
人との葛藤がないから、自分自身に葛藤すべき義務がある。
魂だけはいつも気高く荘厳に。
好きだ嫌いだどうしたいだのと、もう、そんなステージで生きてはいない。
人はそれぞれ、生まれて来たのには何かしらの意味があるって話を聞いたことがありますか。
僕は自分を天秤のようなものだと思っています。
だから、悪い人は僕に近寄らないでほしい。悪いことをしたぶんだけ、きっちりと十字架を背負ってもらうことになってしまいます。
もちろん、僕が手を下すことは無くて、自然に、適度に、的確に、それは必ず起こるので。