Goodbye,Pascal

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僕は高校生の時に、半年ほどイギリスの南部の街のブライトンという街に語学留学をし ていたことがある。港町ブライトン。南はほとんどが海に面していて、風がきつい。夏は バカみたいに暑いし、冬はガッカリするほど寒い。僕がこの街に着いた日、ホストファミ リーのおばあちゃんは、「ここはいい街よ、シュ ウ。映画にも使われたの。『愛と青春の旅立ち』っていう。」と、僕に説明した。甘ったるいラブストーリー。典型的なハリウッド映画。うっとりするためだけに作られ、大ヒット した、デュエットによる少々甘すぎるラブソング。歌のタイトルがいったいなんていった かは忘れたけれど、まあ、そんな映画が撮られるような街で僕は暮らしていたわけだ。 僕の1か月の小遣いはだいたい六万円程度で、その時は1ポンドがだいたい二百六十円 から二百七十円くらいだったから、けっこう生活はきつかった。街のベーカリーで買うサンドイッチがだいたい1ポンド20ぐらいだから、月のお小遣い(というか生活費)は日本でいうところの四万円くらい、という感じで、気軽に使えるお金はほとんど無かったし、 移動手段は主に自分の足を頼った。街の中心まではだいたい歩いて四十分ほどあったのだ けれど、自分の足を頼った。

イギリスの家庭料理なんてのは、だいたいどこの家においても同じように絶望的だけど、 僕の家のおばあちゃんは、僕が外で食べてきたら怒るので(もちろん、外で食べても不味い)、平日の学校のある時はグッとガマンの子だった。家に帰って、様々に形を変えるポ テトとチキンを淡々と食す毎日。そのかわり、バリエーションにいささか富み過ぎの、山 盛りのデザート。僕が現在甘いものを見るだけで嫌になるのは、ここにも原因があるかも 知れないと思ってしまう。同じ家の屋根の下には、僕より四つほど年上のスイス人の女の 子―、いや、女の人。本国に警察官との婚約を控えている女の子が住んでいて、僕らは、「ね、 イギリスの食べ物ってホント不味いねぇ。」などと言いながら、たとえば、心がどんなに素 晴らしくこもったとしていても、どうしようも救いようがないスープなどを、二人でぶつ ぶつ文句を言い合いながら啜っていた。 週末に仲間と街に出かけてのチャイニーズフードが唯一の救いみたいなもんだった。僕 の体が米を求めているのをほとほと実感しながら、パサパサの米と、ミックスベジタブル が大量の油で炒められたフライドライスを胃の中に放り込み、やる気の無いコンソメスープに漬かった、麺の形状をしただけのヌードルを啜った。 貧乏暇なし、というのは遠く過ぎ去った格言で、他にたいしてやることも無かったので、 学校にはちゃんと通った。夏にはほとほと日本人が多かったのだけど、秋の声を聞くと、 学校のロビーからはさっぱりと日本語が消え、国連英語検定の何級かを受かると、国から 援助金が出るスイス人が目立ち始めた。で、なぜか僕は、そのスイス人の一人の青年と仲 良くなった。名前はパスカルと言った。

パスカルと僕とは学校のクラスも違うのだけれど(もちろん彼の方が上である。僕は、 ロウワーインターミディエイト”Lower-intermidiate”という、日本でいう英語検定2級より ちょい下くらいのクラスに所属していた)、彼の噂を聞くことはよくあった。家の同居人の ドイツ系スイス人である女性、ギャビーから彼の話を聞いたこともあったし、同じ学校の 日本人の生徒からも聡明で頭のいいスイス人がいる、とも聞いていた。二十一歳にして六 か国語を操るスイス人パスカル。頭が切れ、いつも傍には人の絶えない人気者パスカル。 そんな出来すぎな名前と才能を持った彼と、僕は、秋口から午後のレクリエーション、自 由選択クラスで一緒になった。 その学校では、午前中は生徒各々の学力に合わせてクラス分けをしていたのだけれど、 余りにも単調になりすぎるきらいがあるのを汲み取ってか、学校側は午後に生徒が自分で 選べる、様々な授業を用意していた。それは例えば、歴史であり、音楽であり、スポーツ なんかもあったり、まあ、それらを英語によって学ぶわけだ。夏のタームには僕は音楽を とったのだけれど、残念ながら曲を聴いて書き取りをしましょう、だとか、この曲の言い たいことはとか、そんな内容ばっかりだったし、第一、聴かされる曲がおおよそ退屈なA OR、すなわち日本で言う懐メロのような曲ばかりだったので、かなり辟易していた。例 えば、そこでストーンズのベガーズバンケットなんかが流された日には、 「シュウ、この曲はすなわち、何が言いたいのかしら?」 「ミックジャガーの英語はさっぱりわかんないけど、キースリチャーズのギターは間違 いなく、ロックンロールは最高、って言ってます。」 なんて、そんなアメリカ的カンバセーションすら取りようが無い。というか、学校の授 業でストーンズを流すところなんてありえないし。 で、この秋のタームで僕が選んだのは「ゲーム」だった。楽そうだな、と思ったし、少 なくとも退屈では無さそうだ、と。その授業には幸運にも(幸運にも?)日本人の生徒は いなかったし、およそ数にして十人強ぐらいの、いろんな国からの生徒が集った。ロシア からは老後の楽しみとして英語を勉強しに来た、七十歳をゆうに越えたおばあちゃんまで いた。不幸なことに、何らかの発作で在学中に亡くなったけれど。そして、その十人強の 中に、聡明なパスカルはいた。 どこの世界でも初対面は退屈な自己紹介から始めるものだ。スイスのチューリヒ近郊に 住んでいるパスカル。国連英検のためにここに来たパスカル。他の国の人が自己紹介をし ているのを聞いていていつも思っていたのは、日本人は目的意識が希薄だということだ。 僕?僕は、イギリスに憧れてここに来ました。何に?いや、音楽とか、ファッションとか。でもここは語学学校よシュウ? そう言われるのがどうしても嫌で、僕はいつも適当に差し障りの無い自己紹介をしていた。僕は何も知らないただの十七歳だった。

そして、ある日、アルゼンチン人の女性が自己紹介を始めた。 「エミリアです。白人です。」 エミリアと名乗ったその女性は、僕の目から見ると、どこをどう見たって白人の肌には 見えなかった。でも、僕にとっては、というか多くの日本人が日本を離れない限りは、肌の色なんかどうでもいいことだと思うし、僕がここに来てからも、黒人でも「リアルブラ ック」と呼んでも差し支えないくらいの人も見たし、褐色に近い黒人も見た。ただやっぱり、いろんな国があって、いろんな考え方をする人がいて、そんなわけでこのエミリア嬢 は、肌の色を自己紹介で堂々と発言しなければならない境遇になったんだろうな、なんて 思った。僕のとなりにはたまたまパスカルが座っていて、僕はなんとなく彼に話しかけた。 「ねぇ、パスカル、彼女だけど、白人に見える?」 「・・・いやぁ!」 パスカルは僕の質問に思わず咳き込むように吹き出し、僕の耳にひっそりと口を近づけ た。今までに知らない香りがした。 「いや、シュウ、彼女よりもおまえの方が、よっぽど白人ぽい。」 僕らは授業の最中だというのに爆笑し、教師が止めても、しばらく腹を抱えて笑いあっ ていた。そんなわけでまあ、そんなことから僕とパスカルは仲良くなった。 頭脳明晰なパスカルは、僕との日常の会話の中でも、頼りない僕の英語をじっとトビ色 の眼で僕を覗き込んでから、僕の言いたいことの本質を嗅ぎ取り、的確な回答を出した。 その多くは周囲の人間、様々な国籍の、様々な肌を持った人間から絶賛されるにおおよそ ふさわしいものであったし、機智に富み、万人が思わず唇の端を少しだけ緩めてしまうよ うな―、センスのいいものだった。話し方もやや早めで、重要な箇所にポイントを置いて 強調できるような、頭の切れる人間に多く見られるだろう、センスのいい話し方をした。 一部には良く思っていない人間もいる、という話も耳にしたけど、その多くはひがみや羨 望から来るものであることは、陰口を叩いている人間の質を見れば理解できることだった。

日本人が海外の学校に通っていて、陥りやすい、というか、まあ別に悪いことでは別段 無いのだけれど、その学校に通っている日本人同士で群れる傾向にあるのは、経験のある 人はご存知のことと思うのだけれど、僕はその時間の多くをパスカルと過ごすことになっ た。別段意識してはいなかったのだけれど、例えば、眠い目をこすって、シリアルとミル クを嫌々胃に流し込んで学校へ向かう。学校のロビーにあるドリンクサーバーでネスレの 薄いホットレモンティーをサーヴし、固くて、コンクリートみたいなソファーに座り、マ ルボロの箱を逆さにして、テーブルでトントンと叩いて煙草の葉をフィルターの口元の方 へぎゅっと詰める。すると、パスカルがロビーのドアを開け放ち、僕の姿を見つけたかと 思うと颯爽と駆け寄り、「な、シュウんとこの先生、超美人じゃん?」だとか、週末のささ やかなご褒美、すなわち休みの日の予定の計画だとか、それぞれの国の話だとか(ライン 川って、スイスから流れてるんだぜシュウ!)、いろんな話をした。 僕らが取っていたゲームの授業では、僕とパスカルがいつもコンビを組み、単語のクロ スワードとか、ブロックバスターだとか、様々なゲームで僕らがいつもトップを取った。 語学力に優れるパスカルがボキャブラリーの部分を受け持ち、僕はゲーム性の盲点を突い て勝ち方を考え、また、創造力の必要な分野を受け持った。十回勝ち抜いたらデートして もいいわ。でもパスカルとシュウと私の三人でよ?と、ルースという名前の美人教師と賭 けた時、僕らは非常に燃えた。勝ち抜きが決定した瞬間、僕らは狂喜し、世界一仲のいい 日本人とスイス人になった。その週末は小高い山の草原までドライブし、ルースの作った サンドイッチを貪るようにして食べた。ルースは僕の口の端についたタマゴを人差し指で すくったのにパスカルは妬いて、芝生の上を転げまわり、そのうち、僕らは三人で果てし なく草原の真中で転がって遊んだ。 冬がやって来て、パスカルとの別れの季節になると、僕らはお互い握手をして別れた。 なあシュウ、冬休みはどうするんだ。せっかく日本からここまで来たんだから、ヨーロッ パに来て見ないか。近くまで来たら寄っていけよ。シュウに僕の国を見て欲しいんだ。こ こより食べ物は遥かにマシだし、女性だってきれいだ。(これはさすがに偏見じゃないか、 と僕はいちおう言った) チューリヒに寄ったら絶対電話してくれよ、僕の名前を受話器 に精一杯叫んだらなんとかなるから、うん。 僕は、その場で大きな声で「パースーカールー!」と叫んでみた。シュウ、バッチリだ。 とパスカルは笑いながら言った。それなら、耳の遠い僕のばあちゃんでも何とかなりそう だ。そんなこんなで、僕らのブライトンでの生活は、最後まで笑いが絶えることが無かっ た。 その一ヵ月後に僕はパスカルと再会し、最高のビールと、やっぱスイスならこれだろ、 ということでチーズフォンデュをご馳走になった。あんまスイス人ってチーズフォンデュ って食わないんだよシュウ。ウェイトレスはフォンデュにワインを少々入れすぎたようで、 僕らは完全にアルコールの飛んでいないその鍋に向かって、僕らが過ごした日々の食事と 同じように、ファック、ファックと言いながら食べた。シュウと一緒にいると美味いもん に出会わないなあ、と言いながらパスカルは笑っていた。連れてきたのはおまえだろ、と 僕はパンの耳をちぎってパスカルに放り投げ、パスカルはパスカルのパンでそれをやり返 し、僕らはレストランから退場勧告を喰らった。ワインフォンデュに用は無いねと僕らは 言い残し、人間が吐く時に起こす、何とも言えない音を真似て叫びながらレストランを後 にした。パスカルは笑いすぎて、三十分ほどハンドルを握れなかった。次の日、僕が旅立 つ時も、もちろんパスカルは見送りに来てくれて、僕が次にドイツに行く、と言うと、あ そこも食事はひどいよ、と、しかめっ面をしながら言って、僕にパスカルの彼女の作った サンドイッチを持たせた。タマゴは唇の端につけるべきかな、と僕が真顔をして言うと、 パスカルは思い出して爆笑し、電車の中でころころと転げまわればいいさ、と言って首を 掻ききるポーズを見せた。僕は電車のドアを挟んでパスカルに中指を突き立て、振り下ろ した。それが合図のようにドアは閉まり、僕らは互いに笑いあい、罵倒しながら別れの瞬 間を迎えた。泣きながら中指を突き立てている人間は、普通あんまりいない。僕らは、二度と逢うことはないだろうな、とお互いがちゃんと理解していた。頭脳明晰なパスカル。 ただのやんちゃだった僕。

パスカルとは、その年の僕の誕生日プレゼントに、チョコレートばかりが入ったバカみたいに大きな詰め合わせを贈ってきてくれたのを最後に、コンタクトは取っていない。

今でもパスカルは僕のことを思い出すことがあるのかな、と、ふと想ってみる。通り過ぎたあの頃とあの場所は、少し我慢してお金を貯めれば足を伸ばせる歳に僕はなった。今あの場所に降り立ったなら、湧いてくるのは懐かしさなのか、見えなかったものが見えるのかはどうにもわからない。ただ、今の自分に嫌気がさして、来なければよかったと思うのではないかという、そんな人生を僕は送っている。

 

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