Only the good die young.

一昨日辺りから、おおよその人にとって、普遍のテーマとも言えるだろう「死」について考えている。 とはいえ、それはべつに、僕が病んでしまっているというわけではまったく無くて、あるきっかけで、先週末からヨーロッパ近代史の史料を探しているうちに、近代史ではどうしても触れない訳にいかない、虐殺の歴史(魔女裁判、ホロコースト、ソビエトの強制労働死等)で、かなり深く関心を示してしまったからに他ならない。

「人の命は平等」
「いのちを大切に」

僕らはこれらが、当然のこととして日々を送っているが、歴史的にこれらが当たり前になったのは、実は、近代になってからのこと。しかしながら、日常的に僕らがさして興味を示すことも無い、諸外国では未だに、人の命は平等では無いのが事実である。平和なこの国で、衣食住に事欠かない生活がほぼ当たり前かつ、それがまるで当然の権利のように僕らは生きている。何かのきっかけで、今の僕たちのこの恵まれた状況に感謝を感じることはあれど、そんなことを考える機会はあまり無い。たまにニュースで目にする、ひどい死に方に対しても、基本的には人ごとだ。そういった事件が身に降りかかることがあるかも、なんてことを僕らは考えもしない。考えたとしても、次の瞬間には食べ物や異性や次の日の休みの予定のことを考えている。べつにディスっているわけでは無い。こんなことを考えねばならない理由も、必然性も、みんな自分のことに必死で、そんな心の余裕は無いのだ。噛み砕いて説明してくれるのがネットやテレビのニュースである、というだけの話。

今の僕たちにとって、おおよそ現実離れしている、そういった様々な死について、特に昨年から今年にかけてはそういった事件が多くあったが、恥ずかしながら自身の教養不足によって、人に説明する時に、欠落が発生していた。現代に起こっているこれらの事象について、人として理解と教養をもう少し深める必要があるだろうと考えた。また、そのためには特に事件の背景にある、伝統、文化、歴史から学ぶことがどうしても必要である、ということで、主に歴史書漬けの最近であった。

一つの事件における(例えばアウシュビッツ)、様々な研究家の著作や当事者の一次資料を溺れるように読む。もちろん、それぞれ見解は異なるし、どこかの新聞社のように、結論と思想ありきの誘導への分析となっているクソもあり、日本とナチスを並列で語る本もあり(そう考えている現代の日本人は多いかもしれない)、また、逆に、大量虐殺は無かったとするホロコースト否定本もある。が、自身の思想に合う本を読む、というのはおおよそ公平性に欠けるので、ちゃんと(いちおう)目を通す。そして、自身なりの公平なジャッジメントで自分の立ち位置を確定していく。「この事象について自分はどういった立ち位置に立つのか」ということは僕の中では大変重要なことだ。身近な事象でもこれは同じ。利害関係が発生する事象において、片方の主張だけ聞いて、判断や結論を出すということはあり得ない。完全な天秤となることは難しいが、フェアである人間であろうと、自分で言うのもなんだが、努力はしている。

そんな中、昨日、社用の帰りに近所を歩いていると、ある知り合いに偶然会って、ガンになった話を聞く。「ガン=死」のイメージは、確かに一般的なものだ。告知の後、メンタルがかなりやられてしまったとのこと。そりゃあそうだ。僕はその方の気持ちを全て理解することは出来ないけれど、気持ちは察して余りある。その不安に、人に話さずにはいられなくなってしまう気持ちもわかる(僕はそうではないけれども)。波長があったようで2時間ほど話す。何度か笑ってくれたことが有難い。 別れてから、今度は「身近な死」について思いを巡らす。当然、そういったことを考えるのは嫌なものだ。しかし、僕は「そんなこと考えずに明るいこと考えようよ」という人では無い。自分自身のどうしようも無い悩みなら、そう考えるのは理解できないことも無いが、彼は善人で良い人なのである。考えないわけにはいかない。

自身に対する死生観はすでに確立されているから、自分のことはまあどうでも良いが、やはり、身近な人の死はやはりうろたえるし、悲しいし、心が捕らわれる。
そんなことを考えていたら、ふと、昨年亡くなった、ある大切な友人であった女性のことが頭の中を去来する。

彼女が最後に行ったのはプラハだった。

偶然にも、ヨーロッパで繋がった。

※写真は去年訪れたベンメリア遺跡。ラピュタのモデルと言われる(時代的に疑わしいが)。僕はここで何故か死を感じた。

 

 

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